太田房子

追悼文


太田房子


 木村さんと私は二十歳違います。私が21歳の頃、木村さんは41歳。私がニューヨークへ着いた年、1967年に主人の同僚として紹介されました。一人娘の真理ちゃんが生まれた年でもありました。チャイナタウン脇の東にお住まいでした。それから35丁目に移られ、ニュージャージーのメタッチェンへと引っ越され、2016年奥様の津貴子さんが他界されるまで五十年の月日でした。

 子供が学校に行き始めた頃、句会に誘われて始まった俳句生活は今や私にとって生き甲斐となっております。ニューヨーク生活の大先輩で何事につけ手解きを受けたものです。料理、買い物、医者、税務関係、ほんとにお世話になりました。俳句冊子『方舟』の編集は五十年間も関わり、私もお手伝いをしておりました。

 私は2013年から日本へ移住しましたが半年毎にN Yへ戻って来たので、津貴子さんのお亡くなりになる2016年はちょうどN Yに居ました。その時は『縁』というものを深く感じ取りました。彼女が入院された時、亡くなられた時、私はニューヨークに居ました。この偶然は必然と心得ております。

 近年木村玲二さんは娘さんの保護のもと、ワシントンのシェアホームに入っておりました。静子さんと二人で尋ねた時、とても幸せそうでした。津貴子さんのことを聞くと、『ちょっと買い物に出ているような気持ちでいる』とおっしゃってました。九十四歳、やっと津貴子さんのところへ行くことができたのですね。よかったね。きっと二人でコーヒーを飲みながら私のことも話をしているのでしょうか。お二人ともお幸せに。日本の空から祈っています。



追悼句


ひげ爺のもぐもぐ春を食う句会

涅槃会や死んでは困る生き字引き

あの世にて二人仲良く春彼岸

春星や恋女房と出会いしか


                                                  風子

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