塚本惠 句童
追悼文
塚本 惠
木村丹乙さまとのご縁私にとっては、画家の先輩、木村令二氏としての思い出が大きいのです。
1961年、NYのご自宅で初めてお目にかかりました。
一般の日本人には、まだ海外旅行の許可が下りず、数少ない日本人という頃でした。
私は、ロードアイランドのアートスクールから特別生という枠を得ての留学生という立場でした。二年の滞在許可で、ロードアイランド州プロビデンスで一年寮生活をし、その後、NYのマンハッタンの美術出版社で実習生として暮らしていた時のことでした。当時、木村さんは、アートスチューデントリーグでの長期滞在許可を得て居られ、日本人の私費留学生たちは、木村さんのお世話になった方が多く、今や超有名人の水玉画家のK女史の無名時代の逸話など秘めて居られたのでした。
私は、一旦帰国後、東京の下町生まれと結婚、夫と共に渡米、NY暮らしの大先輩木村御夫妻に再会、なにかとお知恵を拝借したものです。
その後、夫の仕事でLAに転居、私は、自由律俳句のグループに首を突っ込み、さらに俳句でご活躍の木村氏の方舟に参加のお許しを得、以来遠隔地よりの投句で、皆様のお顔も存知あげないままでした。
木村師匠とは、長電話での交流でしたが、遠慮の無い会話で、失礼をもかえりみずつい、生意気なことを申しあげたりでした。
或る時、私が大好きな言葉として「終わり良ければすべて良し」と申しあげたところ木村氏は「始め良ければすべて良し」であり、私は間違っていると主張されすっかり、気まずくなってしまいました。
遠距離は悪く作用し、そんな些細なことから、方舟誌とのご縁も途切れてしまい、その後、ハコ句会で、再び、皆様にお世話になる機会が出来、という次第です。
私にとって、木村氏は頑固な師匠でしたが、俳句の世界への扉を開いて下さった大恩人です。お元気な時に御礼を申しあげておきたかったです。心からご冥福をお祈り申しあげます。
追悼句
蒼いろのしたたる画布や春逝けり
樹々光り村の画伯と春惜しむ
句童
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